ごわごわした気持ちの捨て場所

発達障害者の遺言、黄色のシャツが嫌い

宗教を引き連れてきた諸悪

今週のお題「私のおじいちゃん、おばあちゃん」

 

母は気がおかしい。気付いたのは夫の指摘。

癇癪持ちの私は家の中で私だけがおかしいのだと思っていた。

しかし私は影で母をどこかで気持ち悪く思っていた。

異様な善意、規律正しさ、他者への信頼。

そのわりに他者と抱えるストレスをいつも抱えていた。

外を見る母はいつもそんなもので出来ている。

 

人を何より優先する母は、娘の私にもホテルマンのような完璧さを求めた。

理不尽な子供同士の関わりでさえ厳しく求めてくるものだから、

私は人のことが億劫で、卒園した頃にはゲームだけしたい子になった。

母を人を関わらせない方がいいと、子供ながらに思った。

しつけ、口調が異常に厳しくなり、慌てふためき、

それでも他者に優しい母を見ると、家族以外のすべてに妬みを感じてしまう。

母も自分も嫌だった。今もその母の気質を受けている自分も母も嫌いだ。

 

私は母の聖書を開いたことがある。

そこには「誰かを絶対に責めてはいけないよ」

一行で言うとそんなことを誰かが書いた紙が挟まっていた。

私は真っ先に母の異常さはこれのせいだと思った。

 

そのきっかけは神父なのだろうが、

教会に連れて行った祖母の影響が大きい。

子供だったので像に延々と話しかけている祖母はただ不気味だった。

母は子供の頃から宗教へのストレスを抱え、教会には全く近づかない。

しかし無意識のうちに母は宗教により極端な価値観を持つようになった。

 

 

私も妹も、PTSDを持っている。

当時に抑圧された、あるいは処理しきれなかった傷が、

PTSDを起こすようになるのだという。

 

母はけして加害者を否定しなかった。

私たちの母であることより、家族を守ることより、

人々の菩薩であることを選んだ。

私たちには気の持ちようだとしか言わなかった。

 

人への不信感を抱えた私の気持ちを否定し、

人を信頼するよう、歩みよるようにとただ言うだけだった。

私だけでなく、歳の離れた妹相手にも、母は同じことをした。

 

そしてフラッシュバックを起こすと、

昔のことじゃないと飽きられ、怒鳴られ、

「可哀想な人」と憐れむように見下された。

 

母をここまで理不尽な言動にさせたきっかけが聖書にあると思うと、

あのおばあちゃんを敬おうなんて私は思えない。

 

私は本当はその聖書をその場で引き裂いてやりたかったが、

本自体は他人の私物なので逆さまに本を戻すだけにした。